日本人の身長、世界の身長
国別の平均身長はどのくらいなのか?
日本人の平均身長に、地域によって差が生まれていることがわかると、世界ではどうなっているかにも興昧がわく。
人類は600万年前に誕生したとい’われるが、現代の人類は、15万年前にアフリカで生きた1人の女性を共通祖先とするという。「イブ」と命名されているが、それがわかったのは、ミトコンドリアDNA遺伝子の研究が進んだからだ。
動物の細胞のなかにはさまざまな細胞小器官があるが、その1つがミトコンドリアである。DNAはミトコンドリアと細胞の核にしかないが、ミトコンドリアと核は、異なるDNAをもつ。ちなみに、植物のDNAは、このほか葉緑体にもある。
さて、ここが生命の不思議なのだが、ミトコンドリアDNAは女性からしか伝わらない。男性のミトコンドリアDNAは子どもに遺伝されないのだ。つまり、母性遺伝である。
哺乳類のミトコンドリアDNAが完全に母性遺伝することを具体的データで証明したのは、分子生物学研究者の林純一さん、米川博通さんらの日本人グループだ。1995年(平成7年)のことだが、これによって人類の共通祖先が「イブ」にまで行き着く。
その人類は、10万年前にアフリカ人の系統が分岐し、5万年ぐらい前にヨーロッパ人とアジア人の系統に分岐したという。現人類祖先の壮大な旅のはじまりである。
それからの長い時間のなかで、人類は自然環境に適合して体を変化させたが、とくに皮膚の色を適応させた。これは遺伝するため、やがて18世紀にスウェーデンのカールーリンネによりはじまった生物の分類学により、人間を皮膚色で分けるようになった。そうして、いつしか黒人系、白人系、黄色人系の人種とされる。が、皮膚色は人種差別に結びつきやすいことから、いまはそうした分け方をしないのが研究者の合意となっている。
替わって使われたのは、コーカソイド(ヨーロッパ系)、ネグロイド(アフリカ系)、モンゴロイド(アジア系)の3大人種である。もう少し細かく分けて、オーストラリアのオーストラロイド、アメリカ大陸のアメリンドという呼称が用いられることもあるという。
この分け方にしろ、黒人、白人などの言い換えに過ぎないのだが、とりあえず、ここでは準拠しておこう。
横道に逸れたが、話は世界の平均身長であった。
イメージとして、コーカソイドの背が高いという印象がある。ことに北方系は高いとの感覚が強い。が、実際のところはどうなのだろう。
たしかに、オランダ人の平均身長は世界一高いという比較データがある。事実、男性が182.5センチ、女性が170.5センチで、日本人より10センチ以上も高い。
オランダ人には及ばないものの、ノルウェー人、スウェーデン人、フィンランド人、デッマーク人なども180センチ弱である。やはり、北方系の人間は背が非常に高い。
北国の人間の背が高いというのは、日本人の平均身長の地域差とも合致する分布である。
北国では背が高く、南国では低いことに理由はあるのか?
身長差は、もしかすると次のようなことから生じたのかもしれない。
気候によって恒温動物の体の形態が変わることを説明した、古典的な経験則が2つある。
寒冷地ほど身体は大きくなるとする「ベルクマンの法則」。寒冷地ほど身体の突起物が小さくなるという「アレンの法則」だ。
1874年にカールーベルクマンが発表した説が「ベルクマンの法則」だが、簡単にいうと「恒温動物では、同様な種であっても寒冷地に生息するものほど身体が大きくなり、近縁な種であれば、大型種ほど寒冷地に生息する」とする経験則である。
「アレンの法則」は、J・A・アレンが1877年に発表した説で、「恒温動物では、寒冷地に生息するものほど、耳、吻、首、足、尾などの突出部は短くなる」というものだ。
どちらも、気候的な基礎的自然要因が形態に影響を与えるという相関関係を示す説で、例外はあるものの、事実、そうした傾向は見てとれる。
これらの説は、形態の変化を同じ理由によって説明するもので、一見、わかりやすい。
北極圏に生息するホッキョクグマの体は非常に大きいし(ベルクマンの法則)、それに比較して耳は小さい(アレンの法則)。
反対に、アフリカから中東の熱帯砂漠地帯に生息する狐であるフェネックギッネは、小さな体に(ベルクマンの法則)大きな耳をもつ(アレンの法則)。
こうした例を示されると、「なるほど!」と膝を打ちたくなるが、じつは、身体の大型化や小型化、突起物の長短は、それほど単純なものではない。別の視点から指摘できるともいう。
たとえば、環境適応は寒さ暑さだけではない。食料とも密接に関連する。ホッキョクグマは、アザラシなどを餌とするため海中に入ることが多い。耳が小さくなったのは、水を防ぐためだといえなくもない。似たように魚を餌とするアザラシやオットセイ、ペンギンも、耳がどこにあるのかわからない。
フェネックギッネにしても、地中のネズミなど小さな動物を獲物にしているために地中のわずかな音も聞き逃さぬよう大きく発達したと考えてもおかしくない。
そういえば、なぜあのアフリカに地上で最大の大きさを誇る象がいるのか。インドから東南アジアにかけてもインド象がいる。
「同様な種であっても寒冷地に生息するものほど身体が大きくなる」というのなら、暑さでは遜色のないアフリカとインドなのに、なぜアフリカ象のほうが大きいのか。
疑問符を付けようと思えば、ベルクマンやアレンの法則に?jマークはたくさん付く。
もちろん、進化に関しては、現代の科学では遺伝学的な追求こそもっとも合理性があるとするが、動物種の骨の形態や形質には、遺伝子だけではなく、気候や栄養摂取など環境が大きく影響することも事実である。
縄文の遺伝子を色濃く残す地域は背が低い
日本の国土は幅こそせまいものの、距離は結構長い。北は北海道の稚内、南は沖縄県の与那国島まで3000キロを越えている。面積にしても、G8のなかでは、ロシア、カナダ、アメリカ、フランスに次いで第5位である。農耕適地は急峻な山岳が多いために広くはないものの、国土面積だけでいえば思った以上に大きい。その面積に1億2500万人住むのが日本という国である。
日本人は似た体つきや顔立ちをもつ。地方、地方では通じない方言はあるものの、標準語ですべて意思疎通ができる。単一性の民族と思われがちだが、長い歴史を見ると決してそうではない。いろいろな民族が混合している。仮説が数多くあるなかで、日本人の起源について定説となっているのが「二重構造説」(植原和郎)であろうか。
国立遺伝学研究所教授の斎藤成也さんの書かれた『DNAから見た日本人』(ちくま新書)を参照して説明すると、大陸の人びとは6つの経路をたどって日本列島に移動し、東には果てしない大洋によって行き止まりとなっていたこの地に住み着いたという。
6つの経路とは、
- 朝鮮半島からの移住
- 樺太(サハリン)経由の移住
- カムチャッカ半島から千島列島を通って移住
- 台湾から琉球列島を通過しての移住が中心となり
- 東シナ海を渡ってくる移住
- 沿海州から日本海を渡ってくる移住(*これらは船舶造船技術や航海技術が進歩してから渡来してきたのではないかと推測されている)
以上が、日本に渡ってきたルートというわけだが、人種的には、遺伝子の系統を調べると東アジア人なのだそうだ。
つまり、彼らこそ数万年前から渡り続けて定住した日本人の先祖である。
そして、1993年(平成5年)に京都・国際高等研究所にて開かれた「人類進化に関するシンポジウム」で、縄文人から現代日本人にいたるまで、北方起源と推定されたという。日本人のルーツがかなり絞られたというわけだ。
だから、遠く古い縄文時代の日本全土、つまり南の沖縄人であろうが、北の北海道人であろうが、日本に暮らす人びとは遺伝的に近い関係にあった。
その縄文人も、縄文時代の終わる約3000年前には、本州以南の縄文人と北海道の縄文人が遺伝的に遠くなっていったらしい。
弥生時代になると、ますます北方人と南方人では遺伝的乖離が進む。
本土縄文人には大陸からの弥生人との混血により遺伝子が混入されていくが、九州以南の縄文人には混血は見られるものの本土ほど多くなかった。
北海道では弥生人との混血はほとんど見られず、逆に北方オホーツク文化の影響を受けて混血が進み、やがてアイヌ文化が生まれていったのではないかという。
こうした推移のなかで、北方オホーツク文化圏の北海道人と九州以南の縄文人の遺伝的な近縁性が、さらに薄れていく。とくに沖縄人は弥生人との混血が少なく、遺伝的に縄文人の特徴を強くもって、現在にいたった。
日本人を説明するとき、こうした遺伝的な特徴を踏まえ、数万年前の旧石器時代の第一波移住民子孫を「縄文系」、縄文末期以降の第二派移住民を「渡来系」とする「二重構造説」が定説になったと解説されている。
都道府県別の男女の平均身長。秋田人が高く、沖縄人が低い
伸び止まっているとはいえ、平均身長が高くなった日本人である。単純に評価すると、そのおかげで見栄えのほうもよくなってきた。
しかし、全国平均ではなく県別比較をすれば、また異なった「身長地図」が見えてくる。
沖縄県が男女とも平均でいちばん低身長という結果となるのだが、じつは沖縄のみならず、南国地方は北国より背が低いというデータが明示されるのである。
実際に、その統計資料を見てみよう。
すでに記したように、平成18年度の17歳における男女の平均身長は、男子が170.9センチ、女子は158.0センチとなっている(文部科学省調べ)。
男子の場合、47都道府県のうち、170センチより低い県は3県しかない。広島県と高知県の169.8センチと沖縄県の168.8センチのみだ。
沖縄県は全国平均から比較すると、ほぽ2センチも低い。
ちなみに、5歳児の平均身長を見ると、全国平均は110・7センチだが、沖縄県は109.7センチ。110センチを下回っているのは沖縄県だけである。
女子も同様である。156センチ台は宮崎県の156.9センチと沖縄県の156.2センチのみで、沖縄は全国平均より1.8センチも低い。 5歳児にしても109.8センチの全国平均に対して109.0センチと、やはりもっとも低い数値となっている。
団塊世代から日本人の身長は急激に伸びた
伸長の科学的な分析は別にして、社会現象的にとらえるとおもしろい。日本人の身長が急激に伸びだしたのは、戦後の「団塊世代」でスタートしたことが、見てとれるからだ。昭和23年からの30年間で男子は8・7センチ、女子は4.5センチも平均身長が伸びている。ほかの時代では決して見られない現象である。
ところが、団塊ジュニア時代になると身長の伸びが停滞している。食生活はジュニア時代のほうが豊かであったろうし、生活の安定性も高かったはずなのにだ。
にもかかわらず、なぜ身長の伸びが止まったのだろうか。
基礎的環境適応能力、遺伝的伸長能力などなど、日本人の伸長のポテンシャルはこのあたりが限界なのだろうか。
たしかに、日本人の身長の伸びは踊り場で足踏みしている状況だが、限界とは断言できないように思う。背の伸びは限界に達したのではなく、それ以外の伸長を阻害する要因なために止まっているようにも見えるからだ。
この20数年、身長の伸びが鈍っているのは、子どもたちの生活環境の変化が大きいのではないか。
子どもたちが朝食をしっかり食べない、夜遅くスナック、インスタント食品などのバランスの悪い食事をする。 こうした、いわゆる「食生活の乱れ」が指摘されているし、学校でのイジメや受験などのストレス、理由もない夜更かしなどの生活悪化。家庭的には、父親のリストラや両親の不和から離婚などなど「生活環境の不安」が大きな要因となっているのではないかともいわれている。
もちろん、団塊世代は戦後の混乱のなかに生まれ、食糧不足のなかに生きてきた。1学年が220万人を超え、他の時代に類例を見ない混雑ぷりである。人的な圧迫感も尋常なものではなかっただろうし、大学進学率は急速に高くなり、受験競争によるストレスも異常に大きかっただろう。
それでも、身長が伸びた。その要因には、戦争という「死」の恐怖からの解放があった。「死」という究極のストレスを受けない時代背景が、伸長抑制因子を取り除いたのではないか。そう考えても、あながち見当違いではないように思う。
日本人の身長は、この100年でどのくらい変わったのか?
ここで明治から平成にかけて、17歳時点での平均身長がどのように変わってきたのかを追いかけてみたい。
わかりやすい数値にするために、10年ごとの平均身長の推移をとりあげ、その10年でどれくらい伸びたかを明らかにしてみよう。
文部科学省の統計資料が1940年から47年まで欠損しているため、その間の数値は不明である。以後は1948年を起点にして、1998年まで10年ごととし、最後は2006年までの8年間の身長の伸びを記録した。
以上が日本人の身長の推移であるが、ここから見えてくるものがある。
大きな流れとしては、男女とも同じような軌跡を描いているが、まず、平均身長が、ある一定のセンチになるまでの年数を見てみよう。
男子の場合、157.9センチだった1900年から160センチの身長になるまで16年間、1916年(大正5年)までかかっている。2.1センチ伸びるのに16年も必要なのか、と思っていると、その後に5センチ伸びるまでは、何と44年の年月を要して1960年(昭和35年)まで待たなければならなかった。
途中に第二次世界大戦によって塗炭の苦しみを砥めたため、一時期、マイナスの伸長となったことが大きく響いたわけだ。
次の5センチの伸びに要した時間は22年であった。62年から82年(昭和57年)にかけてだから、日本の高度成長期に当たっていた。経済白書が「もはや戦後ではない」と謳ったのが、1956年(昭和31年)のことで、戦後復興の槌音から、いよいよ成長の時代に移行する時期だった。
経済の発展は、食糧事情の好転、栄養バランスの良化も一緒にもたらしたであろうし、学校給食の充実が子どものたちの成長に大きく貢献したと思われる。
日本人はいつから背が高くなり出したのか?
日本人の低身長は、明治のはじめまで続く。江戸末期生まれが大半だから当然だが、しかし、同時に明治時代後半は日本人の身長が高くなる契機ともなった。
西洋伝来の食文化が「文明開化」とともに招来し、栄養が急速に改善されてきたことが最大の理由だろう。
文部科学省の資料に1900年(明治33年)からの、日本人男女の平均身長のデータがある。
1900年~1939年(昭和14年)までは6歳から17歳までのデータ。40年(昭和15年)から47年(昭和22年)の8年間は戦時中と戦後の混乱期で抜けているが、48年以後は5歳から17歳までのデータが揃っている。
そのデータによると、17歳の男性の場合、1900年が157.9センチ。160センチになったのが1916年(大正5年)であり、165センチに到達したのは1960年(昭和35年)、170センチは1982年(昭和57年)にクリアされ、その後はO.9センチしか伸びていない。
同様に女性では、1900年が147センチという平均身長である。150センチに届いたのは1924年(大正13年)、155センチが1966年(昭和41年)、158センチには1993年(平成5年)に到達したが、以後は伸びたとしてもO・1センチだ。
伸長の推移をデータで見ていくと、現在のように伸び方が止まった日本人の身長は、限界に近づいているのだろうか。これについては次項で少し触れるが、社会的要因が大きく影を落としているようにも見受けられる。
低身長ワースト1は江戸時代の人
弥生時代や古墳時代の日本人の身長が高かった理由は、おそらく1つしかない。経過時間の短さからすると遺伝子の突然変異は考えにくいので、栄養面でバランスがかなりよかったということだ。
稲作がはじまり、定住生活になれば人口が増える。その人目を養うには、魚介はもちろんのこと、鳥獣も食糧にしていく。いきおいタンパク質が摂取され、身長が高くなっていったのではないか。
ところが、古墳時代を境に平均身長が低くなっていく。その理由として、6世紀の仏教伝来がかかわっているのかもしれない。人目が増え、食糧の分配率が低下していくにもかかわらず、いたずらに生き物を殺すな、という仏教の教えは、鳥獣を食糧にする食文化を薄れさせる1つの要因になったのではないだろうか。
ともあれ、鳥獣を基本的な食糧としない日本独白の食文化は、おおいに体格に影響したであろうことは容易に想像できる。少ない食糧で効率よく生存していくには、小さな体のほうが有利となる。日本人は生き抜くために「体の小型化」を選択したとの仮説が成り立つような気もする。
その結果だろうか、男性の平均身長は、鎌倉時代には157センチ前後となり、江戸中期から明治初期にかけて155センチほどという低い平均身長となっていく。
それを裏づけるような、おもしろい資料がある。整形外科医で作家の篠田達明さんが書かれた『徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮新書)に掲載された徳川歴代将軍の身長である。
余計な注釈を加えず、篠田さんのデータを借用させていただければ、表Iのようになる。
ただし、ここに記されている身長は位牌の高さである。将軍の位牌は、亡くなったときの身長に合わせて作られたため、。おおよそ”実際の身長をあらわしているのだそうだ。
また”おおよそ”と書くのは、亡くなったときにすぐ身長を計測すれば正確に計れるが、死後硬直がはじまってから計ると、股関節、膝関節、足関節が屈曲拘縮を起こしているため、多少は身長が低くなるからである。
その意味では、将軍の身長の正確な実測値ではないが、”おおよそ”の身長がわかるというわけだ。
さて、そこで、歴代将軍の背の高さを知って、「えっ!」とびっくりするのは五代将軍綱吉の身長の低さだろう。七代の家継は8歳で逝去したから、低いのは当然だが、綱吉の124センチは異様な低さである。
実父の三代将軍家光は157センチ、実母の桂昌院が146・8センチ(遺体の実測値)であれば、遺伝要素が強かったわけではない。身分柄、食生活は豊かだったと思われるので、低栄養で身長が低くなったわけでもなさそうだ。
医師でもある篠田さんは「低身長症」ではないかと推測している。その部分を引用してみよう。
低身長症の原因には内分泌異常、骨系統疾患、栄養不足、愛情遮断性小人症などさまざまなものがある。綱吉の肖像画をみると均整のとれた体つきをしており、特別な症状は認められない。したがって特発性(原因のはっきりしないとき医者はこういう便利な用語を使う)あるいは成長ホルモン分泌異常による低身長症と思われる。
こう解説しているが、筆者も同書に掲載されている綱吉の肖像画(徳川美術館蔵)を見る限り、成長ホルモン分泌異常による低身長と思わざるを得ない。病名としては「成長ホルモン分泌不全性低身長症」となる。
ただし、絵師が綱吉の勘気をこうむらないように、デフォルメして描いていないと仮定してのことだが……。
ついでに歴代将軍(綱吉、家継を除く)の平均身長を計算すると、155・16センチとなる。前期と中期以降を分けて計算すると、綱吉を除く江戸前期の六代目までは158センチ、家継を除く中期以降の将軍の平均身長は153・14センチである。
最後の将軍、十五代慶喜が抜けているのは、徳川家の菩提所・三河の大樹寺に祀られている歴代将軍の位牌が十四代までしかないからである。
慶喜は1913年(大正2年)11月22日に死去したので、それまでの徳川将軍の位牌安置の儀式にならわなかったためであろう。遺体は東京の谷中墓地に葬られた。
身長ははっきりしないが、写真がかなり残されているので、それによって身長の低さが見てとれる。また、1867年(慶座3年)3月にイギリス、フランス、オランダの公使と会見した様子を、倫敦新聞は「大君は身の丈け常人に異ならず」と報じているというし、晩年の慶喜に仕えた侍女は「御前(慶喜)は、いまのお人が想像なさるよりはるかに小柄で五尺そこそこでした」と回想談で語っていたそうだから、152センチ前後の身長だったようだ。
古代、日本人の身長は何センチだったのか?
わが日本人の身長は、国際的に見て「低い」範躊に入るのであろうか。若い世代の男子の平均身長が170センチを越えたとはいうものの、世界とくらべてみると決して高いほうではなかろう。これについては、後段、世界の平均身長をくらべてみる。
身長の差がよくわかる例がある。G8サミットで記念写真を撮影する各国首脳の身長の比較だ。1975年からはしまったサミットに出席した首相は15人ほどいるが、中曽根康弘さんなどを除けば、やはりどう見ても背は低い。
最近では、戦後生まれの安倍晋三さんは、175センチ、70キロとバランスのとれた体型をしているため、写真うつりでもなかなかの存在感を発揮していたが、少し前の首相は、平均身長の低い大正や昭和も戦前生まれの方々が多かった。そこで、みなさん、押しなべて背は低かった。
あの小泉純一郎さんも169センチ、60キロという小さな体であった。軒並み180センチ以上の外国首脳にくらべ、日本の首相は160センチ台か、高くても170センチを越える程度であろうか。
能力は体の大きさとはまったく無関係だが、日本を代表して参加していると思えば、見栄えの点ではちょっと残念な気がしないでもない。


